『ラオ博士のサーカス』2006年06月07日 12:02

今日は雨が降るというのでバス通勤。 そのバスの中で中学か高校だったか、その頃読んだ本を思い出した。

『ラーオ博士のサーカス』

チャールズ・フィニイって作家は、この中編以外には(たしか)知られていない。昔出ていたのは、鮮やかな黄色の表紙に悪魔が描かれた印象的なデザインの小さなハードカバーの本だった。文庫で再販されたはず、と思ってamazonをみてみたら文庫も在庫切れみたい。文庫化も1989年と既に昔だったんだね。。。

ラーオって名字は、中国の「老」。だから、この本は「老子のサーカス」。アメリカの田舎町にラオ博士が引き連れる謎のサーカス団がおとずれ、おかしな事件を起こしてさっていく。これが本の前半。後半には登場人物についての蛇足だらけの奇妙な辞典がくっついている。小説本体に匹敵するボリュームの人物紹介がついていて、そこからして奇妙な本。

サーカスの出し物も変。例えば「ピープショー」。これはアメリカのサーカスとかコニーアイランドにあるようなエロティックな見せ物やフリークショーを覗くものなんだけど、ラーオ博士が見せてくれるのは古代の異教の神々の競演。最後には火山が噴火してしまう。小さなはずのテントの中なのにスペクタクルなシーンが展開され、キマイラやサチュロスなどの想像上の生き物が次々とでてくる。

他にも死者をよみがえらせるアポロニウス。哲学的な話をする人食いウミヘビ。ロシア人か熊かわからない?謎の生き物。

ファンタジーというのは、作者のイメージの世界に入り込むことだから、往々にして作者の心の迷宮への旅だったり、閉ざされた心の暗部にはいりこむことであったりする。ハリーポッターのようなエンターテインメント小説でも考え方によっては、他人のどうでもいい妄想を見せられる「人生の無駄時間」。(無駄時間自体は否定しないよ。)

でも、この『ラーオ博士のサーカス』の読後感は何か違う。昏睡というよりは覚醒に近い感覚。程よい短さであること。書き手が自分の構築した世界に対して醒めていて、それを笑い飛ばす姿勢をもっていること。登場人物が驚くべきことが次々に起きても何ともおもっていないこと。

いろいろ理由はあると思うけど、この読後感はこうした荒唐無稽な小説の中にあっては独特。唯一無比かもしれない。

もし図書館などにあったら、あるいは変な知人の一人が持っていたら、読んでみても悪くないと思う。

スピルバーグがリメイクした『宇宙戦争』などで有名なジョージパルが一度映画にもしてる。

コメント

_ yukio ― 2006年06月14日 14:39

ちょっと、興味津々です!

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