七夕記念日 ― 2006年07月07日 20:49
今日は七夕!
子どもの頃、実家のあたりは夜の光が今より圧倒的に少なく、自宅の玄関を出ると目の前に天の川が見えた。
実家の北側は川幅100メートルくらいの川で、その向こうは低層の食品工場。このため視界が開けており、薄く白い川が天頂から地平線(盆地なので山の稜線)にむかって「流れている」のがモワ〜ッと見えた。
あれは銀河の辺境の星から見た、銀河の中心の断面だった、と今にして思う。宇宙全体を除けば、自分が肉眼で見た、もっとも大きなものかも。。。
中心が膨らんだ円盤のような銀河系の図をよく見るが、空の天の川を見ながら「円盤の上はどっちだろう?」って首を傾げてみると、宇宙的な規模の空間が突然認識できる気がする。
今では、実家の川向こうに大きなパチンコ店ができ、天の川は見えなくなった。(視力が落ちたせいもある。)
自分より圧倒的に巨大な自然物をいつでも手軽に見れる星空ってのは、とてもすごい!! 畏怖の念、畏敬の念を感じる機会ってないものね。
何百万年も毎晩「それ」を見てきた人類が、ここ数十年見れなくなってしまったことで、大きな変化が意識や文化に訪れてもおかしくない。(いい変化であれ、悪い変化であれ。。。)
七夕の夜にそんなことを思いました。
岩盤浴 ― 2006年07月04日 11:13
ブログを立ち上げたときの設定で「マインド・アンド・ボディ」というカテゴリーを作ったまま、一回も使ってなかった。
仮想世界は物質世界に対立して表現されることも多い。
(例えば、映画のマトリックス。リアル=善、バーチャル=悪の二元論が基底にある。三部作のエンディングでは二元論の止揚が描かれるけど、強く印象に残るのは二元論のところまでかなあ。)
でも人間が感じるものが、結局は知覚器官から脳への電気信号だったり、脳での電気的な情報処理であるとすれば、「目で見る、口で味わう、耳で聞く、手で触る、鼻で嗅ぐ」のが、「リアルな」世界であろうと「バーチャルリアルな」世界であろうと(乱暴な言い方をすれば)本質的な違いはないはず。
むしろ、わたしたちにとって問題になってくることは、リアルであれバーチャルであれ、知覚したものの先に、「自分以外の存在を認識するかどうか?」、「その存在とコミュニケートするか?」だと思う。
(話の展開上、大雑把な論旨なので、深くは突っ込まないでね。)
そうしたことと人間のカラダのかかわりを考えていこうというのが、この「マインド・アンド・ボディ」のカテゴリー。
このカテゴリーのはじめてのエントリーとしては、岩盤浴について書いてみたい。(アレ? まくらの話が大げさなわりに岩盤浴?)
事務所のある白金台、目黒近辺も岩盤浴ブーム。行ったことのない人のために説明すると、床に敷き詰められた熱い岩盤のうえに寝て、体の芯まで暖めるというもの。サウナほどは熱くないので長時間はいれる。
仕事で肩が壊こるので、渋谷の公園通りにある岩盤浴のお店に集中して3回行ってみた。
http://www.bagus-spa.com/index2.shtml
専用の作務衣みたいなものに着替えるんだけど、10分もすれば汗でビショビショになる。5分うつ伏せ、10分仰向け、5分別室でクールダウン。これを3セットくらい、寡黙に繰り返す。
昔、知人がネイティブアメリカンのスウエットロッジというのに行ったけど、そんな感じ? スウエットロッジはスピリチュアルな儀式の色彩が強いものらしい。。。
あるいは、20年近く前に京都で、天武天皇も傷を癒したという「八瀬のかま風呂」というのに行ったのを思い出す。
http://www.tv-asahi.co.jp/miyako/2003/02/24_28/tuesday.html
岩盤浴はサウナより熱くなく長時間はいるので、セットを繰り返していると 、軽い瞑想状態で、何かの苦行しているような気がしてくる。 肉体派のサウナよりもスピリチュアルな行為をしている錯覚に陥ってくる。
話に聞いたスウエットロッジもかま風呂も岩盤浴ではなく、原理はサウナだけど、長時間をかけた「はいり方」や、意識に及ぼす影響は岩盤浴に近い感じがする。
熱い薄暗がりに寝ていると、思考と体と、そして汗までが切り離すことのできない「自分」に感じられてくる。流す汗は排泄される思考。
要は気持ちいいということかなあ。お陰で肩の凝りが改善しました。
歌舞伎一幕見 ― 2006年06月27日 09:18
24日土曜日の午後。
自宅で読んでいた本に中学生の課外学習での歌舞伎観劇の話が載っていて、ふと歌舞伎が見たくなる。10数年前に「猿之助の宙吊り」見たさに夏の暑い盛りに行ったのが最後。
小学生の子ども2名を連れて「夜の銀座」へ。一幕見というのは、夜の部の歌舞伎座だと通常2、3のお芝居がセットになっているけど、その1つだけを見る格安チケット。5000円くらいからの公演が一幕見だと800円。でも、その分、天井に頭が着きそうなくらいの席だし、花道は客席の角度の関係でほとんど見えない。そのうえ真夏は熱気が上にたまって蒸し暑い。
30分前にいくとチケット売り場には、外国人観光客と老齢の歌舞伎愛好家たち(こういう人たちは贔屓の役者が出ると「なんとか屋!」って声をかける。)が20名ほど並んでいる。
演目は「二人夕霧」。傾城(花魁)の夕霧にいれあげて身を持ち崩し、勘当された商家の若旦那が主人公。子ども向けの内容ではないが、どうせわからないだろうと子どもを列に並ばせ、食事の買い出し。
近くの「矢場とん」でトンカツ弁当を作ってもらう。矢場とんは名古屋名物ミソカツの東京支店。揚げたてのカツの香りは歌舞伎の客席に充満するかもしれない。でも、食べながら見るのは日本の大衆芸能の伝統。気楽に見れるのも一幕見席のいいところ。
お芝居は歌舞伎特有のご都合主義にあふれている。 解説のイヤホンガイドを借りなかったので、謡の部分が聞きとれず、話はところどころ不明。
終盤、前のガールフレンドと今の奥さんを「両手に花」状態で、小判の雨が降る中、踊る若旦那を見ていると、お気楽気分が伝染してくる。こういうのもたまにはいい。小さい頃、地元のお祭りに一度だけ大衆演劇の小屋が建った。とても稚拙な国定忠次だったけど、裸電球の照明で見た異空間が記憶に鮮明だ。
子どもたちが大きくなった時に、こうした雰囲気はまだ残っているのだろうか? 世の中は愛国的な雰囲気が広がってきているけど、「日本」の文化は一部の好事家だけのものになっていくんだろうなあ。。。
新しい太陽の書 ― 2006年06月20日 10:43
以前このブログで書いた『デス博士の島その他の物語』のSF作家、ジーン・ウルフ。 情報量がおおく、技巧的で「読みとおすのに努力を要する」作品。
この作家の「新しい太陽の書」シリーズ 4部作をようやく読みおえた。
表紙の天野喜考の印象もあって、ファイナルファンタジーな感じ。拷問者という特殊な職業の組合に育った主人公 = セヴェリアンの一種の「貴種流離譚」。
記憶をなくさない主人公の回想録という設定からうまれるディテールにこだわる描写が、異世界を濃厚につくりあげている。読んでいて感じる深い没入感と斬新な展開は快感。
ファンタジーな世界にSF的な裏づけが張り巡らされる手法はジーン・ウルフならでは。
でも、未訳の第5作がないと尻切れトンボな印象があり、手放しでは勧められない。ロード・オブ・ザ・リングのフロドが滅びの山に向かう途中で、リングのなりたちについて啓示を受け、そこで終わってしまった、というような感じの終わり方。
また、ちょっと御都合主義的でオレ様な世界。
詳しいファンサイトには第5作のサマリーも載ってます。
第1巻はアマゾンで手に入らず 版元(早川書房)のハヤカワオンラインで購入しました。
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/10689.html
これは「本の虫」用の本かなあ。。。
でも、こういう世界が仮想世界として体験できたら、すごい。活字を視覚化するとイメージが限定されてしまうという面もあるかもしれないけど、ビジュアル体験としては圧倒的なはず。
ワールドカップ ― 2006年06月13日 11:15
昨日のワールドカップ、日本戦。 仕事の区切りがつかず、ちょうど試合が始まった頃に事務所を出た。
事務所の前の目黒通りはクルマが少ない。人通りもほとんど,ない。終電後の深夜の感じ。さすがワールドカップと思いつつ駅に向かう。ホームにも人が少なく、電車は座って帰れた。。。。
自宅の駅に降り立つと住宅街の雰囲気が違う。いつもはもっと遅く寝静まった街を帰ることが多いのだけれど、家々には明かりがつき、みんなが起きている気配がする。マンションの開いた窓からは歓声が聞こえてくる。
興奮して起きている夜の街に帰ってくる。。。
このことが、ほんの一瞬だけど錯覚を招いた。今から向かう『自宅』には『家族』が待っている。そこに待っているのは、その家庭の『世帯主』と『妻』そして子どもたち。自分はその『家庭』に向かっていく。
すぐに錯覚に気づいた。自分がその家庭の世帯主だ。ほかの人間がそこに待っているわけじゃない。
両親と暮らした子どもの自分。一人暮らしをして、同居家族をもたない自分。そして現在の自分。
ワ−ルドカップの街が、いつもと違う自分の役割の記憶を呼び起こしたみたいだ。 錯覚に不思議な感じがして、そしていつのまにか家族を持った自分に不思議な感じがした夜だった。